災害報道が自分の原点

――実際にアナウンサーになってみて、苦労した点はありますか?
武田「大学生の頃は、歌の歌詞を書いたり、演劇をやったりと、自分中心の自由な表現をしていたんです。ですが、アナウンサーは、仕事として伝えることを担っていますから、相手に伝わらなくては意味がありません。そこが最初すごく窮屈に感じられて、とても戸惑いました。
しかし、次第に、誰かに伝わった時の喜びや、時間や言葉の制約があることの楽しさを感じられるようになりました。ルールの中で、パズルのように言葉を選んで、本当に言いたいことを伝えるという、放送の言葉の奥深さや面白さに気づいたんです。そこからは自然と、この仕事が好きになっていきました」
――武田アナウンサーのキャスターとしての原点とは何でしょうか?
武田「ぼくのニュースキャスターとしての原点は、災害報道なんです。阪神淡路大震災の時には、地震が起きたその日に、震源地である、淡路島まで行きました。現地で被害の様子を目の当たりにした瞬間、放送で何ができるのか、どうしたらみなさんの力になれるのだろうかと、考えさせられました。
こうした災害報道の体験から、誰かのためになることがしたいとの気持ちが、今も自分の中に強くあります」
――今年の3月11日、東北から関東にかけての太平洋側の地域で大地震が発生しました。そのニュースを伝えた時の気持ちについてお聞かせください。
武田「その日は、午後3時から石原都知事が記者会見を行う予定になっていたため、ぼくはその様子を見るためにニュースセンターで待機していました。テレビでは国会中継をしていたこともあり、ニュースセンター内は静かだった印象があります。少しして緊急地震速報が流れました。次の瞬間、伊藤健三アナウンサーがスタジオに飛び込みました。そのあとを追いかけるようにしてぼくもスタジオに入りました。直後に地震が来たんです。
伊藤アナウンサーが第一報をお伝えしたあと、緊急報道担当の横尾アナウンサーに代わりました。ぼくは横尾アナウンサーのとなり、アナサイドと呼ばれる場所で、彼のサポート業務をしていました。
その後、大きな津波が来たのが午後3時20分ごろ。その様子を各地に設置されている定点カメラが映し出しました。午後4時前、横尾アナウンサーからぼくにバトンタッチしました。その直後、上空からヘリコプターで被災地の様子を伝えていたカメラが、津波にのまれる名取市の様子を映し出しました。
映像を見ながら、その様子を実況したとは思うんです。今日までの経験と訓練によって、ニュースキャスターとして最低限の職務をぼくは全うしていたと思うんです。でも本音を言えば、その時のぼくは、言葉を失っていたんです。ニュースキャスターとして、ひとりの人間として、今そこにいる方たちに、どんな言葉を届けるべきか。それがその時、分からなかったんです。
今回の震災によって、多くの方が犠牲になりました。でも、もしかしたら、ぼくらの放送次第では、ひとりでも多くの方を救うことができたかもしれない。情報を正確に、冷静に伝えること。その上でさらに、ぼくらにできることがあったのではないか。それについて現在、アナウンスルーム、報道局全体で考えています」
――「東日本大震災」発生から今日までの間の、心境の変化についてお聞かせください。
武田「最初の一週間は、ひたすら言葉の無力さを感じていました。あまりにも、失われたものが多過ぎて......。どんなに放送で伝えても、それを取り戻すことはできませんし、放送の内容がどれだけ被災地の方の役に立てているかも分かりませんでしたから。さらに原発問題が起きたことで、被災地だけではなく、全国にまで不安が広がりました。
その中でぼくは、無力感と何とかしなくては、というふたつの感情がごちゃまぜになったまま走り続けていたように思います。しかし時間の経過と共に、放送が役に立てたのかもしれないと思えるニュースがいくつか入ってきました。多くの義援金が各地から集まったり、多くの方がボランティアとして被災地に行かれたり、支援の輪が広がっていく様子をお届けできた時に、少しだけ救われたような気持ちになりました。
被災地の方々は実際、震災直後は停電していて、テレビを見ることができなかったそうなんです。ただ、放送を通じ、それ以外の地域の方へ、何が起きているのかをお伝えしたことで、みなさんの気持ちをひとつにできたと思うんです。そういったことができるのは、放送の強味であり、役割のひとつであると改めて感じました。
今なお、日本全体が不安に包まれています。その中で、ぼくらは、放送は、どうあるべきなのか。それを常に意識しながら、放送をお届けしていきたいと考えています」




